東日本大震災 被災地の小学生~入学から卒業まで~ 4.復興の長い道

東日本大震災 4.復興の長い道

4.復興の長い道

撮影・文/片野田 斉

【前回の記事】3.あの日、3月11日午後2時46分

田老は盛岡から東に100km、山道を車で2時間ひたすら走り「本州最東端のまち」宮古市の北部に位置する。複雑に入り組んだリアス式海岸は豊かな漁場である。

田老に入った時は、震災の翌日東京を発って3週間がすぎていた。何度も大津波に襲われた教訓をもとに築かれた巨大な二重の防潮堤、通称「万里の長城」は一部が溶けたようになくなり、無残にも家が横たわっていた。

シャベルカーと自衛隊が作業をしている。母娘が砂をかぶったガレキの中でアルバムを探している。

九児くんの父親・前田宏紀さんは、道の駅の休憩所に消防団員と泊まり込んで、消火活動、遺体捜索、交通整理、職場の片付けに明け暮れた。自宅は廊下の一部を残し跡形もなくなっていた。

久慈市の実家に避難した妻の恵美さんと子供たちは、ストレスのためか次々に口の周りがガビガビになるヘルペスにかかった。実家は電気も水もあったがガソリンが無かった。診療所に車で連れて行くのも一苦労だった。

震災から2週間経ち、いくつかに分かれていた田老町の避難所を保養施設「グリーンピア三陸みやこ」に統合することになった。

学校や仮設住宅のことなどを決めるのにも、固定電話も携帯もつながらないためにいちいち役場の衛星電話まで行かなくてはならない。実家にいてもおぼつかないのでグリーンピアに行くことにした。

これで家族全員がそろった。グリーンピアの広いアリーナに市役所が区画を割り当て、一人につき毛布二枚を支給してくれた。

東日本大震災 4.復興の長い道

▲避難所のアリーナにて。陽世くん(左)と九児くん(右)

私が九児くんと出会ったのはその頃だ。食事も支給され一日おきに風呂にも入れた。アリーナは天窓があり雰囲気が明るい。

皆知り合い同士なので助け合い、ギスギスしたことはなかった。だが恵美さんにとって一番大変だったのが洗濯だ。育ち盛りの子供6人分の洗濯物をアリーナ入口の外にある冷たい水道で手で洗った。

陽世(ひとき)くんと母親の濵崎さゆりさんは震災直後、田老第一小学校の体育館に避難した。家は山側で国道より高台にあり昭和8年の大津波でも被害はなかったので心配はしてなかった。

家を見にいったのは何日後だったか覚えていない。家を見てビックリ。津波は一階の天井まで入っていた。材木が流れ込み天井に刺さってグチャグチャ。階段を上がると二階はなんともなかったが、生活は一階でしていたので普段着る服も布団もダメだった。

陽世くんの宝物だった箱一杯のトミカのミニカーも流されていた。机の下を探るとランドセルが出てきた。さゆりさんの実家から入学祝いに贈られたものだった。

泥だらけだったが近くの川に持っていき一生懸命洗った。ランドセルの中に入れていたポケモンの筆箱もきれいになり現在も使っている。

東日本大震災 4.復興の長い道

▲陽世くんの自宅。1階は大きな被害を受けた

さゆりさんの家族もアリーナに移った。施設の中に広いお風呂がある。陽世くんは湯船に入るとお湯を揺らして「津波だ、津波だ」と遊んでいた。津波に関して何も喋らない陽世くんだったが、衝撃は受けていたのだろう。しばらくやっていた。

田老第一小学校の入学式は、当初の予定から3週間遅れた4月26日に避難所になっていた体育館で行われた。九児くんと陽世くんはネクタイを締め黄色い制帽をかぶるとピカピカの一年生になった。

東日本大震災 4.復興の長い道

仮設住宅の建設は急ピッチで進み、九児くんと陽世くんは震災後わずか2か月で引っ越した。

前田家は家族が多いために隣接する二部屋をあたえられた。六畳の居間と四畳半が二つの部屋と六畳一部屋だけの単身者用の部屋である。

できたばかりの住宅は新品の電化製品も揃い快適だ。同じ町内の家同士が集まるように割り当てる配慮もあった。

仮設住宅は当初は2年間しか住めないといわれていた。急ごしらえの土台は丸太の杭を土に打ち込んであるだけだ。その丸太が腐るために2年しか住めない。

しかし住宅再建は遅々として進まず、結果的には5年半住むことになる。床が陥没したり畳が抜けたという家もあったが、床下に換気をつけて空気を回したり少しでも腐敗を遅らせようと涙ぐましい努力が続けられた。

仮設は一つの部屋が狭いためにストーブをつけるとすぐに温まるという利点があるが、夏の暑い日は熱気がこもり辛かったという。

夏になると街からガレキはなくなり家の土台だけが残った。強い日差しの中で年配の女性が汗を拭いながらコンクリートの土台に腰を下ろしていた。

あたり一面四角い土台だけが残る。昔を懐かしむようにいつまでも座っていた。やがて土台も消え街は復興へと向かった。

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▲復興工事で造成中の野球場。国道が横切る上は造成中の住宅地

港の北側にある山の上に新しい住宅地をつくることになった。

津波で流れた土地は宮古市に売買するか別の場所へ整理された。街の真ん中を通る国道を3mかさ上げし、それより海側には住宅が建てられないことになった。

海側には商店が並び、道の駅も建設予定だ。隣には津波で流された野球場を再建した。

「万里の長城」のうち、街側の防潮堤は残った部分を50cmほどかさ上げして完成。崩れた海側の防潮堤は土を盛りブロックで被覆し、来年に完成する予定だ。

以前の田老の人々は、二重の防潮堤で守られ、絶対に津波に負けないという自信を持っていたかもしれない。しかし2011年の大津波で「絶対」はないことがわかった。

新しい田老は、防潮堤で守りは固めるが、大きな津波が予想されたらすぐに住民が避難する・避難できる、そんな町になる。

計画が決まると復興事業は加速がついたように進んでいった。

前田家は国道より海側だったので、元の土地では暮らせないことになった。

2017年1月、前田家の新居が山の上に造成された新しい住宅地に完成した。
津波以後、2か月の避難所生活、5年半の仮設住宅生活を経て、ようやく一家は落ち着ける住まいに戻れることになった。

3月、撮影に訪れた私は、新しい家のなかで兄弟と野球で遊ぶ九児くんをなんだかまぶしく見ていた。仮設住宅より断然広くなった自宅でのびのびとふるまう九児くんは、身長が159cmに伸びた。震災から6年の年月をしみじみと想う。

明日は九児くんと陽世くんの卒業式だ。

(次回・最終回は4月下旬に公開予定です)

片野田 斉(かたのだ ひとし):
報道写真家。1960年生まれ。明治学院大学卒業後、週刊誌、月刊総合誌を中心に活躍。
2001年9月11日の米国同時多発テロ事件に衝撃をうけイスラマバードへ。以降パキスタン、アフガニスタン、パレスチナ、イラク、北朝鮮などを次々に取材。ニューヨークに拠点を置く世界的写真通信社「Polaris Images」メンバー。
東日本大震災では長く現地取材を継続し、2012年には「東日本大震災記録写真展『日本!天晴れ!』」を5ヶ月半にわたって東京で開催。
著書に、元ハンセン病患者を長期取材した「生きるって、楽しくって」(2012年、クラッセ)、児童書「きみ江さん:ハンセン病を生きて」(2015年、偕成社)、「中国(世界のともだち)」(2015年、偕成社)など。

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